いつか自分が死んでしまうことを忘れるな

地方都市のメメント・モリ(初回生産限定盤A)(DVD付)

地方都市のメメント・モリ / amazarashi

 

<収録曲>
1.ワードプロセッサ
2.空洞空洞
3.フィロソフィー
4.水槽
5.空に歌えば
6.ハルキオンザロード
7.悲しみ一つも残さないで
8.バケモノ
9.リタ
10.たられば
11.命にふさわしい
12.ぼくら対せかい

 


■amazarashiのアルバムを聴こうとするときは、いつだって覚悟が必要な気がする。ちゃんと気持ちの準備をして、「よし、聴くぞ!」と再生ボタンを押す。

 

今回の作品は、フルアルバムで12曲入り。たっぷりどっぷり、amazarashi(秋田ひろむの世界)に浸ることができる。

 


作品のタイトル”地方都市のメメント・モリ”。

 

メメント・モリ / memento moriとは、ラテン語で「死を想え」、つまり「いつか自分が死んでしまうことを忘れるな」という意味である。なので、安直だけど、アルバムのタイトルにそのまま当てはめると、”地方都市の死を想え”とはなるけれど、これだけではあんまり意味が解らない。

 

やはり、歌詞を読んでいくしかないということで、アルバムの中に、”地方都市のメメント・モリ”という言葉に対して、秋田さんが込めた想いを探してみることにした。

 


■まず、1曲目の【ワードプロセッサー】。いきなりの長いポエトリーリーディング曲で始まるアルバムも珍しい気もするが、1曲目でいきなり、このアルバムの核を成しているような曲であるような気がする。

 

そんな曲の中に、こんなフレーズが出てくる。

 


生きるか死ぬかにおいて 終わりを逆算、サバ―ビアのメメント・モリ
シャッター街の路地 郊外の鉄橋 背後霊が常に見張っている

 

サバ―ビア / suburbiaとは、郊外、つまり市街地からは少し離れた場所を表す言葉である。

 

秋田さんは、青森出身の方なので、自身の故郷である青森を想いながら、この曲やアルバムを作ったんだろうか。秋田さんは秋田さんで青森のことを想って歌っているとしても、聴き手である僕たちは、自分の中にある故郷に置き換えて聴くことができるかもしれない。(まぁ、かくいう僕自身は、生まれ育った町=今でも暮らしている街であるのだが、笑)

 


これは僕の想像によるところが大いにあるが、この歌を聴くと、「自分が育った街を懐かしく想う気持ち」と「こんな街に留まっていてたまるかと決意を新たにする気持ち」の2つを感じる。要は、故郷を想う気持ちと、故郷を離れる覚悟である。

 

昨今の日本は、ますます”若者の地方離れ”が進んでいる。若者の多くは、大都市圏に憧れ、いずれ自分の故郷を旅立っていく。進学のため、就職のため、など理由は色々あると思うけれど。それによって、故郷は活気を失い、商店街はシャッター街へと変貌していく。

 

”背後霊”とは、そんな故郷に置いてきた弱い自分であり、つまり、今の自分は弱いところを見せてはなるまいと息巻いていることになるわけだけど、その”背後霊”はずっと自分を見張っていて、弱いところを見せると、すぐに憑りつくぞと狙っている。

 

確かに、自分が育ったところは、そんな活気を失ってしまった街だ。それを忘れることはないけれど、もう戻ることはない…少なくとも、そこに留まっているつもりはないぞ!と、そういうことを歌っているような気がする。

 


ワードプロセッサー】には、こんな歌詞も出てくる。

 


骨をうずめるなら故郷に でも僕の言葉の死に場所ならここだ
十年後、百年後 何かしら芽吹く種子だと確信している

 

この辺りは、まさに秋田さんが一番歌いたいことなのではないだろか。

 

”骨をうずめるなら故郷”…これは、故郷を想う気持ちを読み取れるが、その後に、”でも僕の言葉の死に場所ならここだ”と出てくる。”ここ”とは、きっと今の自分がいる場所を示しているんだろうけど、自分が立つ舞台の上とか訳してみると、歌い手として、詩人として生きていく、秋田さんの決意が読み取れる。

 


■そして、続く2曲目の【空洞空洞】。

 

また個人的な想いであるが、この曲を聴いて、”地方都市のメメント・モリ”という言葉へのイメージがガラッと変わった瞬間があった。

 

具体的には、この”地方都市のメメント・モリ”という言葉は、場所的な意味で使われているのではなくて、”現代を生きる人たちの心の様子”を表しているのかもしれない、と思うようになった。

 


自分が生まれ育った街を中心だとすると、そこから外へ出ていくわけだから、広く見ると、真ん中だけがすっぽりと空いたドーナツのような形になる。

 

しかし、本来の”ドーナツ化現象”の意味は、中心都市から郊外へと人が移動していって、人口の分布において、中心部が空洞になる現象を言うので、それとは意味が違っている(反対になっている)。

 

じゃあ、精神的な部分ではどうか。つまり、意気揚々と、自分が育った故郷を旅立って、外へ外へと出てきたはいいが、それが結局は、空っぽな生活を強いられる原因になったのではないか、と。要は、”心の空洞化”とでも言うか、芯もなく、ただ生きているだけじゃ、いくら理論武装したって、あなたの心は・人生は空洞です、ってことになるんじゃないか、と。

 


あとは、こんな歌詞も出てくる。

 


空っぽな奴ほど詩を書きたがる
ほんとそうだよな ほんとそうだよな

 

これは、秋田さんが自身のことを自虐的に歌っているのかもしれない。実際は、そんな風に思っているリスナーは居ないと思うけれど…中身もないくせに、偉そうに詩を書くことを、自虐的に皮肉っているのかもしれない。

 


■…という風に、延々紹介していっても良いんだけれど、キリがないので、あと少しだけ、歌詞だけでも少し紹介しておく。

 


見てみろよ これが世界の全てだ
シャッター商店街 環状道路7号線
地元ラジオから流れるスタジアムロック
大仰なエンジン音で ネズミ取りに捕まった

【水槽】より

 


旅ゆく人は荷物も少なく 望郷、忘れ難き思い出も
始発駅に全部置いてくるから 青森駅は感傷だらけ
夢は夢だとうそぶいた 叶えてこその夢だと誰かが言った
夢を終えた奴らに耳を貸すな 君の夢なら 君が夢見ろ

【悲しみ一つも残さないで】より


【悲しみ一つも残さないで】なんてのは、特に”青森駅”なんていう、具体的な故郷の名前が出てくるし、ここの歌詞は本当に名作だと思う。

 


■一言で説明するのは難しいけど、先述したように、このアルバムから感じたことは、「故郷を想う気持ち」と「故郷を離れる覚悟」だった。それはつまり、「過去を想う気持ち」と「過去から離れる気持ち(つまり、未来に向かう気持ち)」と言い換えることができるかもしれない。

 


そして、natalieのインタビューにおいて、秋田さんはこんな風に語っている。


引用元

natalie.mu

 


「今回のアルバムは僕の日記的なアルバムなんですけど、最終的には地方で暮らす生活者の賛歌にしたいと思ってました。今年は地元の友達、昔の音楽仲間と話す機会が多くて、そこから得た発想です。…」

 

この辺りが、アルバムの全てを言い得ていると思う。 思えば、最近のシングル曲である【フィロソフィー】や【空に歌えば】も、前を向いて進もうとしている人の背中を押す応援歌になっている。

 

youtu.be

youtu.be

 


■ということで、アルバムの中に、好きな曲はたくさんあるんだけど、1曲だけ最後に紹介しておきます。

 

【たられば】という曲。

youtu.be

 

”たられば”って言葉は、例えば、「たらればの話をしてもしょうがないだろ!」とかいう風に使われるけど、要は、もう起こってしまったことに対して、仮定の話をしても仕方がない、みたいな感じで使われることが多いと思う。

 

この歌は、「もしも自分が何々だったら、何々をしたのにな」ということが、たくさん綴られている。全部、秋田さんの願望だろうか。

 


例えば、

 


もしも僕が天才だったなら たった一つだけ名作を作る
死ぬまで遊べる金を手に入れて それこそ死ぬまで遊んで暮らす

 

これが出だしの歌詞である。ちょっと皮肉だったり、自虐的なものも含まれているけれど、こんな調子で、「もしも僕が~だったら…する」という感じで続いていくものだから、短編のお話が続いていくみたいで、次は次はと楽しみになってくる。

 

「もしも僕が王様だったなら」「もしも僕の頭が良かったら…」という風に続いていって、最後はどうなるか…それは、自分の耳で確かめてみてください。何ていうか、寂しい部分もあるけど、僕はすごく心にあったかいものを感じた…というよりは、涙腺がゆるむところがたくさんあって、本気で泣かせにきてるなって感じがする曲です。

 


もう一つだけ、印象に残った部分を紹介しておくと、

 


もしも僕が名医だったなら 親父の病気は僕が治す
照れくさいから言わないけどな そういうとこばっかり似てるよな

 

ここを聴いた時(カラオケで歌った時もそうだけど、笑)、個人的にこみあげてくるものがあった。

 

秋田さんも、父親を亡くされた経験があるのかな…あの、僕自身は、高校の時に父親を病気で亡くしたので、ここの部分は、余計にグッとくるものがあった。

 


きっと、”たられば”の究極系は、人の生き死にに関わることだと思う。「もしも病気にならなかったら…」「もしもあの怪我がなかったら…」「もしも死ななかったら…」。

 

もちろん、自分の不注意や不摂生が原因のこともあるけれど、つきつめていけば、急に命に係わる病気になったり、ひょっとしたら明日死んでしまったりするかもしれない。そんなことは、誰にも分からない。

 

だからこそ、”たられば”言ってないで、今の自分で生きていく(しかない)…それは悲しいことじゃなくて、きっと尊いものなんだろう。